2013年11月6日水曜日

EUに希望はあるが、以前としてゆっくりな成長

こんにちは。
今日は、BBCニュースのビジネス欄から、EUについての記事を概訳します。

ソース記事EU sees 'hope' but also lower growth


概訳:ヨーロッパ経済はターニングポイントに到達していると委員会は述べたが、EU全体的には以前予想されたよりもゆっくりなスピードでの成長に留まっている。
しかし18のユーロを使用しているユーロゾーンの国々は、来年には1.1%の成長率を予想している。
委員会は、2015年にはユーロゾーンの成長率は1.7%になると予想している。EU全体としては、来年に1.4%、2015年には1.9%の成長率を予想している。
今年のEUの成長率は平行線を辿ったが、失業率は11.1%のままだろう。
控えめな予測が、ヨーロッパ経済の全身を遅らせた、とキャピタルエコノミクスのヨーロッパ経済トップであるジョナサン・ロイネスは述べた。
ユーロゾーンの基準は今だにとてもひどい。そのような予測は、楽観的になりすぎることの原因になっているようだ、と彼は述べた。
委員会は、イギリスの今年の成長率を0.6%から1.3%へ、そして来年の成長率予想を1.7%から2.2%に大きく更新した。
2013年は、予想を超えた成長率を得ることができ、外観は明るい、とイギリスでは報告されている。

徐々に回復
ヨーロッパ経済がターニングポイントにを迎えているという兆候が増えてきている、と経済金融長官であるオリー・レンは述べた。
しかしレン氏は、"今だに失業率は高い"、と警鐘を鳴らす。
"勝利宣言をするにはまだ早すぎる。失業率は高いままである。"と彼は加えた。
委員会は、来年のユーロゾーンにおける失業率を、以前の予想12.1%を上回る12.2%と予想している。
このことは、失業率が先2年間は現在の水準を保ちつつ、2015年には11.8%に改善し、失業率は段々改善しているということを予期してのことである。
"金融市場の状況は明らかに改善しているが、利益率は傷つきやすい国々で減少している"とレン氏は述べた。
ユーロを使用している18の国々において、委員会は5月に予想した1.2%、そして2015年に1.7%になるという予想を下げ、来年の成長率を1.1%と予想した。
委員会は弱腰な投資を非難した。
委員会はまた、成長率の下落幅が4%だったことをうけて、ギリシャの不況は以前の予想よりも改善していると述べた。


ヨーロッパ経済は以前として厳しい状況な気がしますが、少しづつ改善しているということでしょうか。
楽観的すぎるというレン氏の警鐘は、みんなが楽観的であることでどういった害がもたらされることを意味しているのでしょうか。
資本主義である日本に住む以上、経済について詳しくなりたいです。今月8日にアメリカの雇用統計が発表されますが、政府のシャットダウンがどのように影響するか、気になります。

2013年11月1日金曜日

マーズワン、テストミッションを発表

こんにちは。
BBC Newsから気になる記事を概訳します。

ソース記事:http://m.bbc.co.uk/news/science-environment-24749687

概訳:
マーズワンは我々がコロニーを作るために必要な技術を検証するための、そしてこのミッションのパートナーを紹介する小さな宇宙船を送ろうとしている。マーズワンは2016年に無人の探索機を打ち上げることを発表した。
マーズワンは、火星への片道切符を使って人類を火星に送り込み、2023年までにコロニーを作ろうとしている。
バスランスドロップは、2013年にロンドンで行われる国際宇宙会議でこのミッションについて言及すると見られている。
最初の段階では、火星に実験的システムを送り、人間が生活を継続することができるかどうかを調べることである。
ランスドロップは、「もし火星で何か得たいと思うなら、私たちに連絡してください」と述べた。
火星の土地で実験したいと考えている国があってもいいはずだ。
イギリス宇宙局は当時、火星に着陸することに興味を持っていたことを知っている。
私たちは火星で初のブランドになることに興味を抱いている消費会社も持っている。
誰が最終的に火星行きのチケットを得るのか12月に明かされる予定である。
140国から20万人もの応募者が火星行きのチケットを求めて立候補した。
最も年配の立候補者は83歳で、幼少の立候補者は小学生だった。
我々は8歳の少年からメールを貰い、そこにはこうかかれていた。
「なぜ僕は申し込むことができないのですか。最初のミッションが行われる頃には、18歳になっているのに。」
たくさんの人たちが人類のために何か大きなことを成し遂げたいと考えている。
アームストロングやバズアルドリンが月に着陸したのをみんなが見た。
コロニストが火星に着陸するのを40億人の人々がインターネットを通して見るだろう。
我々は最初の4人が火星に降り立った時、メディア的な収入として60億ドルを得ると見積もっており、それに続いて40億ドルを得られる。
とてつもなく大きな額であり、ロンドンオリンピックでは3週間でそのブロードキャストにより40億ドルの収入があった。
世界中が見ていた。私はマーズワンが世界中の人々を巻き込むだろうと思っている。
このようにランスドロップは述べた。


拙い訳ですみません。
火星行きの片道切符、みなさんは欲しいと思いますか。

2013年10月21日月曜日

Man seeks NZ 'climate change asylum

こんにちは。
久しぶりにBBC Newsから記事を概訳しようと思います。
オセアニア地方で起きている、気候変動が原因と思われる海抜上昇の記事です。
適当な訳がありますが、ご了承ください。


太平洋の島の住人が、気候変動に脅かされているニュージーランドに避難地を求めようとしている。

ロアーン・タイチオタは、高等裁判所に、彼の本国の一部であるキリバチが既に海面の上昇で海底に沈んだと伝えた。

ロアーンは、彼の訴えが却下されることにたいして、移民課に講義しようとしている。

高等裁判所は彼の訴えを保留にしている。

私たちがキリバチに戻った時、未来はないとタイチオタは法廷で述べた。

彼は、ニュージーランドで生まれた3人の子供を含めた家族は、もしキリバチに戻ることになったら、苦しむことになると言っている。

キリバチを形成しているサンゴ礁のほとんどは、海抜の定位置にあり、海面上昇の影響を受けている。


Persecuted Passibly
タイチオタは、最近就労ビサが切れたが、2007年からニュージーランドに住んでいる。

タイチオタは、周りの環境や、彼の住む区域を仕切っている政府によって受動的に迫害されており、政府は彼の現状を改善することができない、とタイチオタの弁護士は述べた。

移民課は、タイチオタの講義を、彼がキリバチに戻った場合、そのことによって彼の生活が脅かされるわけではないとして、彼の求めを拒んだ。

この悲しい現実は、ゆっくりとしかし突然忍び寄る気候変動によって引き起こされた自然の堕落であると、移民課と法廷は六月に書いた。

キリバチ政府は、気候変動によるリスクにたいする対策をしているとも書いた。

政府は、住民たちを海抜が上昇したときのために、フィジーの土地を購入する計画を立てている。

水曜日、タイチオタの訴えを高等裁判所は保留した。採決は数週間後に出る予定である。 

僕の知らないところで、既に地球温暖化による被害を受けている国があることを知りました。
今後、さらに海面上昇が起きると僕の住む日本も影響を受けるのか心配です。

2013年10月17日木曜日

Claude Monet

こんにちは。
今回はEnglish Onlineから印象派の画家、クロード・モネの記事を概訳します。


ソース記事:http://www.english-online.at/art-architecture/claude-monet/claude-monet-master-of-impressionism.htm

クロードモネは、フランスの画家であり、印象派の画家を牽引した画家の一人である。彼の絵は世界で有名になった。
モネは1840年にパリで生まれた。モネの父は運送業をしており、母が家族の世話をした。モネが5歳のとき、ル・ハーブルに引っ越し、そこでモネは学校に通った。モネは外出することが好きで、彼の描写する才能は突出していた。1859年、モネは絵の勉強をするためにパリに戻った。モネはパリで、ルノワールやシスレーなどの時代を生きる画家たちに出会った。モネは彼らとともに、自然を書く実験をはじめた。
1860年代半ば、ヨーロッパの絵の世界で有名になった。しかし彼の生活は変わりはじめた。お金を多く使うようになり、借金の沼にはまってしまった。1870年、モネはカミルという愛人と結婚し、息子ジャンを授かった。1879年、カミルは深刻な病のために息を引き取った。1874年、モネと仲間たちは、彼らの作品を展示会に出すことにした。評論家たちはモネの作品である"印象・日の出"にちなんで、彼らを印象派と呼び始めた。多くの人が展示会に訪れたが、誰も絵を売ることはなかった。
1880年代から90年代にかけて、モネはアメリカで有名になり、絵を売ってお金を得た。1892年には、二度目の結婚をした。モネは晩年、ロンドンからベニスを周遊し、風景画を書いた。1926年、彼は86歳のときフランスのギルバニーで亡くなった。
彼の印象的な画法は、自然的である。彼は作品の中で、その瞬間に現れる自然を捉えようとした。彼は実験的に、光と影が日によってどのように姿を変えるのかを捉えようとした。モネやモネの仲間を、作品が不完全であり詳細さに欠けるということから、批判する人もいた。
モネは、混合されてない色調の強い色を使った。そしてキャンバスに短いストロークで色を塗った。そのことで、モネは伝統的な技法を怠っていると批判された。
彼は晩年、庭の風景に魅了され、彼自身の庭の池に咲いていたスイレンの絵を創作した。

印象派ではゴッホの聖月夜が好きです。
大学でゴッホは日本の浮世絵に影響されているという講義を受けたのですが、内容は忘れてしまいました。
ノートまだ残ってるかな。

2013年10月6日日曜日

アンディ・ウォーホル 〜ポップアートムーブメント〜 ENGLISH ONLINE

こんにちは。
今回は、English Onlineから、キャンベルスープ缶で有名なアンディ・ウォーホルという人物についての記事を概訳します。
キャンベルスープ、と聞いても、僕はあまりピンとこなかったのですが、マリリンモンローのポスターの方は見た事があり、そちらの方が馴染み深かったです。

ソース記事:http://www.english-online.at/art-architecture/andy-warhol/andy-warhol-icon-of-pop-art-movement.htm

概訳: 
アンディ・ウォーホルは1950年にアメリカやイギリスで発祥したポップアートミュージアムにおいて最も人気の高い人物である。
彼はキャリアにおいて、ペイント、映画、コマーシャルからポスターなどを制作した。
 
アンディ・ウォーホルの両親は20世紀初頭、チェコスロバキアからアメリカにやってきた。少年の頃、アンディーは絵を描いたり写真を切ったりしていた。アンディー家は、ウォーホルの父が働く鉱山があるピッツバーグで生活した。
ウォーホルは高校でアートの授業を専攻し、カーネギー美術館でスケッチをした。
 
彼は映画館に行くのが好きで、好きな映画や俳優の記事を集めた。
これらのものは、ウォーホルの後期の作品に影響を与えている。
ウォーホルは、ピッツバーグでアートを学び、1949年にニューヨークへ引っ越し、ニューヨーカーやボーグのような雑誌のイラストレーターとして働いた。
 
彼はこの時、広告のためのイメージを書くのに独特な技術を使い始めた。
アンディはこれらの作品に満足せず、自身の作品を美術館に展示させたがった。
 
1960年代、アンディは日常の物をリアルに書くことに専念した。
こもようなスタイルはポップアートと呼ばれた。
彼はコミックストリップで有名になり、マリリンモンローやコカコーラ、電気椅子を書いた。
彼の最も有名な作品はおそらく、キャンベルスープ缶ではないだろうか。
彼の描き方は、テーマや外観を単純化し、様々な色で色を塗るものだった。
 

彼の生活の中心は、ファクトリーと呼ばれるスタジオだった。
そこで彼は多くのアーティストやセレブと会った。
アンディはファクトリーをアンダーグラウンド嗜好の映画作品を制作する場所としても使用した。
これらの映画は特別な筋書きではないが、長編である。
作品の一つに、ある男が5時間眠る様子を表現した。
 
1970年代から1980年代にウォーホルは同じシルクスクリーンに絵を書き続けた。この技術は彼を有名にしたが、一方で、この頃から彼は衰退の途を辿り始めた。 
1987年にウォーホルは、胆嚢の手術を受け続けた末、58歳で亡くなった。
アンディウォーホルはとてもユニークな人物だった。
有名であること、そして
スポットライトを浴びることが好きなホモセクシュアルであることを彼は明かしていた。
彼は、ミック・ジャガーやジム・モリソンのような派手な人物に囲まれることが好きだった。
ピッツバーグにあるアンディウォーホル美術館は、一人のアーティストに捧げられたものとしては最も大きなものである。
この美術館は、ポップアートの象徴12000点以上を保持している。
最も高価なものは、一億円以上もの値で売れたエルビスプレスリーのイメージ図であるエイトエルビスである。

2013年10月2日水曜日

日本政府、消費税増税を決める

こんにちは。
今日、阿部総理が消費税増税を発表しました。
BBC Newsでも取り上げられていたので、概訳します。

ソース記事:Japanese government to go ahead with sales tax rise

概訳:日本の阿部総理は、現在の5%から、来年の4月1日に消費税を8%にするだろうと述べた。
政策立案者らは、この増税は日本の国内総生産の2.3倍もある国際を減らす手がかりとなると述べている。
このような増税は、日本の需要を減少させるという心配の声も聞かれる。
しかし、分析者は、現在の経済回復は、そのような心配を払拭すると述べた。
日本政府は高齢化に伴う社会保障費を繕うために歳入を増やす必要がある。
2060年までに、日本の人口の40%が定年退職すると見積もられている。
AFP Newsは、阿部総理がこの増税は次世代のための国家信用と持続可能な社会システムを作るためのものであると述べたと引用した。
阿部総理は、新しいパッケージはこの増税がビジネスと家計に与える影響を緩和すると加えた。

広い層に基盤を持つ改善
製造業者は、彼らの出費を広げ、さらに生産を拡大していく予定である。
これは、円安の恩恵も起因しているようである。
("tankan"という単語が頻繁に登場するのですが、何のことかわかりませんでした。)
楽観的に考える人の方が、悲観的に考える人よりも多く存在している。

アベノミクスブースト
昨年の12月に首相になった阿部総理は、日本経済の立て直しのために、アグレッシブな政策を発表してきている。
アベノミクスとして知られる彼の動きは、日本の成長に影響を与えはじめている。
同じ頃、日本の中央銀行である日本銀行は、アベノミクスを援助するために、インフレ率2%を掲げ、マネーサプライを2倍にする措置を取っている。
これらの手段は急激に円の価値を下げた。日本円は、昨年の11月から、アメリカドルにたいして25%も下落した。
海外のバイヤーにとってより安価であるため、円安は、製品を輸出に依存している日本の大企業にとっては良い兆候である。
この兆候は、彼らが海外で得た利益を本国へ戻すときに国の利益を押し上げる。多くのリーダー的な日本企業は、利益の上向きを報告している。
日本経済の回復の兆しと共におきている利益向上は、モラルを上昇させると分析者たちは述べる。
円安に戻ることで得られる収益の回復は、現時点ではその影響が限られているが、これから産業全体に広がっていくだろう、と丸山よしまさは述べている。


全体的にいたらない訳ですみません。BBC Newで日本が取り上げられると、無性に訳したくなります。
今日はこの記事の他に、福島原発の記事もありました。
以前はそんなことなかったのですが、日本経済が上向いてきてからBBC Newsで日本のことが取り上げられる回数が増えてきたように思います。

消費税が8%になっても、社会保障費や国債返還へ充てる財源としては、まだ不十分だそうですが、日本も将来的には北欧並みの税率になるのでしょうか。

2013年9月30日月曜日

American Evolution ~English Online~

こんにちは。
今回は、English Onlineから、アメリカ独立戦争についての記事を訳してみます。
間違いがあるかもしれません。ご了承ください。
ソース記事:American Evolution ~English Online~

訳:
アメリカ革命は、イギリスからの独立を目指した13の植民地内で起きた革命である。
1775年に始まり、1783年に終わった。この革命は、アメリカという新しい国の基礎を作った。


この革命の原因と背景
最初の植民者たちは17世紀に彼ら自身でアメリカ大陸にやってきた。彼らはリーダーを選出し、直面する問題を解決しなければならなかった。イギリスは、植民者たちに関心が無く、国内に問題を抱えていた。
18世紀の中頃、世界を二分する戦争で、イギリスはフランスに勝利した。イギリスの勝利は、北アメリカにおけるイギリスの支配力を高めた。イギリス人は大西洋からミシシッピ川までを支配した。しかし、フランスとの戦いには多大なコストがかかっており、イギリス人は、アメリカの植民地にこの戦争の埋め合わせをすることに決めた。
植民者たちはイギリスの支配者たちに憤慨した。その理由は、イギリス本国が、彼らからお金を巻き上げようとしたことにはもちろん、アパラシア山脈より西の植民を植民者たちに認めなかったことにある。この地域はインディアンたちのものであり、イギリス人は彼らを怒らせたくなかった。

税金
フランスとの戦いの後、イギリスは植民地に課税というかたちで、お金を取ろうとした。これらの法律のひとつである印紙法は、公文書や新聞にまで課税した。植民者たちはさらに憤慨した。彼らはイギリス議会を代表していなかったので、彼ら自身の考えを述べるための方法を持っていなかった。彼ら植民者は、平等に扱われ、誰もが納得する権威を確かめたかった。
1770年のはじめ、イギリス人は植民地の秩序を保つために、兵士を送った。多くの法律は排除されたが、お茶の税だけはそのまま残されていた。1773年、植民者たちはインディアンに変装し、イギリスの船に乗り込み、積まれていたお茶をボストン港へ投げ捨てた。
1770年代において、植民地とイギリスの関係は悪化した。植民者たちは、イギリス人が彼らに売りたいものをボイコットし始めた。

戦争の始まり
1775年、植民者たちはイギリス人の支配に我慢することができなくなった。彼らは戦う準備をし始めた。アメリカ兵士たちは、マサチューセッツのレキシントンではじめ戦った。そして数ヶ月の間に、ジョージワシントンのリーダーシップのもと、軍隊を作った。
全ての植民者たちが、イギリスに反対して戦争にいきたかったわけではない。イギリスの下に留まりたいと考える人たちは、ロイヤリストと呼ばれた。イギリスからの独立を目指す人は、パトリオットと呼ばれた。
アメリカ植民地や戦争の準備ができていなかった。彼らは団結しておらず
、中央政府をもっていなかった。戦争が始まるとすぐに、13植民地の代表者たちは議会を作り、議論した。

独立宣言
だんだん植民者たちは、イギリスに頼らずに自らの問題を解決する事を宣言し始めた。彼らは自由に、彼ら自身で統率したかった。1776年の7月、独立宣言に署名した。

中心となった戦争
戦争がはじまった当初、戦力的に有利なイギリスが大きな戦争に勝利した。しかし1776年のクリスマスの夜、ジョージワシントンの軍隊はニュージャージー州のトレントンとプリンストンでの重要な戦いに勝利した。
1777年の10月、サラトガの戦いで、植民者は重要な勝利を納めた。フランスは、犬猿の仲であるイギリスにたいして、植民者を援助するために戦艦と兵士を送った。
冬の数ヶ月間、ジョージワシントンと彼の仲間たちにとって厳しいものとなった。彼らは満足に食料も無く、病気にも苦しんだ。しかしついに、彼らは自分たちが優れた戦士であることを証明し、イギリスとの重要な戦いに勝利した。何千ものアメリカの奴隷たちも、植民者のために戦った。

アメリカの勝利と和平条約
戦争の最終年は、南の植民地に焦点があてられた。1781年、イギリスの兵士たちはアメリカの兵士とフランスの兵士に敗北した。イギリスは降伏し、フランスのパリで和平条約に署名した。

社会の変化
この独立革命で、7000人以上のアメリカ人が亡くなったが、この独立革命はアメリカ社会に様々な変化をもたらした。この大きな国で、繁栄と成長が始まった。25%の奴隷たちは解放された。北の州は、完全に奴隷を解放した。


ボストン茶会事件はこのころの出来事だったんですね。印紙法のことをstamp actということが印象的でした。